Masukセレスティナ・ヴェルクレアは、姉の誕生日を知っていた。
冬至祭の五日前。
昔から知っていた。
だからこそ、今さら気づいてしまったことがある。
「……私、お姉様の誕生日をちゃんと祝ったこと、あったかしら」
聖ルカ孤児院の台所。
焼き上がったばかりの菓子を前にして、セレスティナは呟いた。
返事はない。
菓子も答えない。
少し焦げた端の部分が、やたらと責めるようにこちらを見ている気がした。
「何、その顔」
後ろからミラが言った。
「どの顔?」
「焼き菓子に怒られてる顔」
「焼き菓子は怒らないわよ」
「じゃあ、なんで謝ってるの?」
第77話 セレスティナ、祝う資格を悩む セレスティナ・ヴェルクレアは、姉の誕生日を知っていた。 冬至祭の五日前。 昔から知っていた。 だからこそ、今さら気づいてしまったことがある。「……私、お姉様の誕生日をちゃんと祝ったこと、あったかしら」 聖ルカ孤児院の台所。 焼き上がったばかりの菓子を前にして、セレスティナは呟いた。 返事はない。 菓子も答えない。 少し焦げた端の部分が、やたらと責めるようにこちらを見ている気がした。「何、その顔」 後ろからミラが言った。「どの顔?」「焼き菓子に怒られてる顔」「焼き菓子は怒らないわよ」「じゃあ、なんで謝ってるの?」 セレスティナは黙った。 確かに、さっきから心の中で何度も謝っていた。 焦がしてごめんなさい。 粉っぽくてごめんなさい。 前よりは柔らかいけど、まだお店のものみたいじゃなくてごめんなさい。 そして。 お姉様、ごめんなさい。 何もかも、最後はそこへ戻ってしまう。「お姉様の誕生日が近いの」「知ってる」「知ってるの?」「リディアが二十一になった日の次は、二十二になるんでしょ」「そうだけど」「じゃあ、おめでとうって言えばいい」 あまりに簡単だった。 セレスティナは思わずミラを見る。「そんな簡単じゃないのよ」「なんで」「なんでって……」
第76話 冬至祭五日前の招待状 レオポルド・ヴェルクレア公爵は、娘の誕生日を祝う方法が分からなかった。 正確に言えば、これまで祝ってこなかったわけではない。 花を贈った年もある。 宝石を贈った年もある。 王都で評判の菓子職人に焼かせた砂糖菓子を、箱いっぱいに用意させたこともあった。 ただし、それを娘が喜んだかどうか、レオポルドは覚えていなかった。 そこが問題だった。「……花は、何が好きだった」 公爵家の執務室で、レオポルドが呟いた。 机の向こうに立つ執事長アルマンは、すぐには答えなかった。「閣下」「何だ」「どちらのお嬢様でございますか」 レオポルドは顔を上げた。 昔なら、そんな聞き返しをされれば不快になったかもしれない。 娘といえば分かるだろう、と。 今は、その問いが正しいと分かる。「リディアだ」「リディアお嬢様のお好きな花でございますか」「ああ」 アルマンは少し考えた。「私の記憶では、特定の花を殊更お好みだったという話は存じません」「そうか」「ただ、執務机にはよく青紫の小花を飾っておられました」「好きだったのか」「分かりません」 即答だった。 レオポルドは黙った。 アルマンは続ける。「ご自身で選ばれたのではなく、庭師が机を明るくしようと置いていた可能性もございます。あるいは、他の花より香りが弱く、執務の邪魔にならなかっただけかもしれません」「……そうか」
第75話 花嫁衣装と監査官章 花嫁衣装というものは、人を黙らせる力があるらしい。 少なくとも、リディアは鏡の前に立たされた瞬間、三十秒ほど何も言えなかった。 王妃宮の衣装室。 三面に大きな鏡。 高い窓から差し込む冬の淡い光。 床には白い布が幾重にも広げられ、机の上には銀糸、真珠、細かな宝石、刺繍見本が並べられている。 そして、リディア自身。 純白の婚礼衣装。 腰から下へ流れる布は、立っているだけで雪のように広がる。 胸元から袖へかけては銀糸で百合が刺繍され、歩くたびに光の角度が変わる。 頭にはまだヴェールを載せていない。 それでも、鏡の中の女は十分すぎるほど花嫁だった。「……すごいですね」 ようやく出た言葉が、それだった。 王都第一と呼ばれる仕立屋マダム・フローラが胸を張る。「すごい、ではございませんわ、リディア様。美しい、とおっしゃるところです」「自分で?」「誰も褒めてくれないなら自分で言うべきですし、これだけ似合っているのですから言っても問題ございません」 横からセレスティナが何度も頷いた。「お姉様、綺麗よ。本当に。今までで一番」「今までの私は?」「そういう面倒な聞き方しないで」「少し気になったので」「綺麗だったわよ。ずっと綺麗。でも今日は、その、別の綺麗なの」「別の?」 セレスティナは困ったように眉を寄せた。「うまく言えない。お姉様が、お姉様じゃないみたいで」 リディアは鏡を見た。 そして、ほんの少し黙った。
第74話 悪女監査官の朝 雨の朝だった。 強い雨ではない。 窓硝子を叩くほどでもなく、庭の土を抉るほどでもなく、王宮の屋根を静かに濡らす細い雨。 ぽつ、ぽつ、と一定の間隔で落ちる音が、王国監査局三階の執務室にも届いていた。 以前のリディアなら、その音を聞きながら、どこかの雨漏りを思い出して胸を痛めていただろう。 聖ルカ孤児院の北側屋根。 濡れた寝具。 冷えた子どもの手。 支援優先度を下げられた申請書。 そして、その書類に気づくのが遅れた自分。 雨音は、罪悪感に似た音だった。 だが今は、少し違う。 雨音基金。 その名前がついたからだろうか。 雨が降ると、リディアは思うようになった。 どこかが濡れていないか。 誰かが困っていないか。 声が小さすぎて、帳簿に届いていない場所はないか。 それは痛みでもある。 だが、痛みだけではない。 見に行くための合図でもあった。「監査官」 ロザリーの声で、リディアは顔を上げた。「はい」「雨音基金、初回公開報告書の清書が届きました」 ロザリーが机に置いたのは、厚みのある白い冊子だった。 表紙には、飾りすぎない文字でこう書かれている。『雨音基金 初回公開報告書 設立準備期支援配分および会計確認』 白羽の会の記念冊子とは違う。 金箔もない。 寄付者の肖像画もない。 美しい詩文も、王妃宮の過剰な称賛もない。 ただ、必要な情報が並んでいる。
第73話 婚姻契約、最後の確認 婚姻契約書というものは、もっと甘いものだと思っていた。 少なくとも、リディアはそう思っていた。 いや、厳密に言えば、貴族の婚姻契約が甘いものではないことくらい知っている。 財産管理。 持参金。 相続権。 居住権。 子の教育方針。 家名の扱い。 夫婦間での社交義務。 それらを定めるのが貴族の婚姻契約だ。 夢見る令嬢が想像するような、薔薇色の紙に愛を誓う文書ではない。 それは分かっている。 分かってはいた。 だが、それでも。 レイヴァン邸の書庫で目の前に置かれた分厚い契約書を見た時、リディアは静かに言った。「……これは、婚姻契約書ですか」 ギルベルト・レイヴァンは、当然という顔で答えた。「そうだ」「監査報告書ではなく?」「違う」「王国法改正案でもなく?」「違う」「雨音基金運営規則でもなく?」「違う」「本当に?」「本当に」 リディアは、表紙をもう一度見た。 黒に近い紺色の革表紙。 銀の角金具。 中央に、無駄に厳格な文字でこう書かれている。『ギルベルト・レイヴァンおよびリディア・ヴェルクレア婚姻契約最終確認版』 最終確認版。 その響きがすでに甘くない。 隣には、確認用の羽根ペン、付箋、訂正紙、条項索引、そして蜂蜜入り茶が置かれている。 完璧な監査準備だ
第72話 冷血宰相の婚約者ではなく 婚約した女は、社交界で急に便利な存在になる。 リディアは、そのことを知識としては知っていた。 誰かの妻になる予定の令嬢。 誰かの家へ入る女。 誰かの隣に立つ者。 そうなった瞬間、その人自身の名よりも、相手の家名や役職が先に歩き出す。 昔、リディアは第二王子エドガルの婚約者だった。 その頃、彼女に近づいてくる人々は、たいてい柔らかな笑顔をしていた。 殿下のお好きなお茶は何かしら。 次の慈善茶会に、殿下のお名前をいただけないかしら。 うちの息子の騎士団配属について、殿下に軽くお耳へ入れていただければ。 王子殿下はお優しいから、きっとお分かりくださるでしょう。 彼らはリディアを見ているようで、実際にはリディアの向こうにいるエドガルを見ていた。 そしてリディアは、その頃、自分をそういうものだと思っていた。 婚約者とは、橋である。 王子へ話を通すための、柔らかく、品よく、傷ついても声を上げない橋。 だから、ギルベルト・レイヴァン王弟宰相との婚約が発表された後、リディアに届く招待状の種類が変わったことには驚かなかった。 驚きはしなかった。 ただ、うんざりした。 それもかなり。「リディア監査官」 監査局の机の前で、セオが招待状の束を両手で持ち上げていた。 厚みだけで小型の帳簿くらいある。「本日の分です」「昨日も同じ量を見ました」「今日は少し増えています」「なぜ増えるのですか」「婚約者効果では」「正式名称ではありません」「何の正式名称ですか」







